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2024/09/22

営為としてのアート:「AIがアートを作れない理由」を読んで

 8/31付で、またThe New Yorkerへの寄稿が公開されていました。生成AIについてです。

Why A.I. Isn’t Going to Make Art [The New Yorker]

以下は感想(引用部は拙訳)です。

記事では「アート」(文章、視覚芸術etc.をひっくるめて)を膨大な選択を通して作られるものとしていて、その過程を含めた全体が「作る側の経験として」定義されている印象でした。以前、どこかで脳を内側から(自分の経験として)見るか、外側から物質として見るか……という分け方を見た覚えがあるんですが(どこで見たのかわかりません。ゴメンナサイ(^^;))、それで言うと内側から「経験として」捉えている描写が多いと思います。


生成AIが「作った」ものが鑑賞に堪えるようになるのは、あるとしてもずっと先とされています。でもそこは一般的にどう捉えられているんだろう……と少し思いました。動物に筆を持たせて抽象画のようなものをキャンバスに描かせる見世物がありますが、今はそれに近い感覚で「AI製」を面白がってる段階だろうか。それともすでに、AIで作ったものと人間が作ったものを「受け手が」見て区別できるかどうか、というチューリング・テストが成立する局面だろうか。


チャンさんの見方はどこまでも作り手寄りで、個人的にも(ささやかながら創作はしてるので)感情として賛同しやすいです。ただ、そう捉える人は多数派ではないかも? ともどこかで感じています。


そして自分がアートの受け手/鑑賞者であるとき、どこまでを「許せる」だろうか? とも。個人的には「"何かに似たもの"をもっとほしい」とは思わない————「●●が好きならこれも好きでしょう」と薦められたものがなぜかたいていダメだった————というタイプなので、「何々風の作風でAIが作った」という触れ込みに魅力は感じません。あっても好奇心どまりでしょう。


むしろ今は「AIが作った小説を読む」と想像しただけで、なぜか屈辱的な感じがするのです。頭で考えた結果というより、ごく反射的・直観的な反応で。コテコテのマーケティングでできてるのが透けて見えるものを見た時の抵抗感と似ているかもしれません。でもこれは過渡的なことなんだろうか? とも自問しています。工場でAIを搭載したオートメーションロボットが大量生産したシュークリームを、それなりにおいしくいただくのと、どう違うだろう……あ、やっぱり違うかな。工場のロボットは人間が細かく設定して、その設定どおりのものを作るのだから。AIは、比喩をシュークリームにしてみると、ネットに上がっている「シュークリームの作り方」をできる限り多く取り込んで、その平均値のレシピで作るみたいなことで。それはたしかにたいしたものにはならなそう。

チャンさんは皮肉として、膨大なプロンプトで修正していくならレベルは上がるかもしれないけど、その「膨大な手間」を前提とした生成AIなんてそもそも需要がなくて、企業は提供する気にはならないだろう……と書いていますが、うなずけます。シュークリーム工場は「膨大なプロンプトを書く」ほうに近い例ですね。(しかも「AI」全般と「生成AI」は文脈として区別しなきゃいけない。うーん、知恵熱出そう☆(^^;))


チャンさんが「手間」とは別の切り口でアートの定義に含めるのは、言語はコミュニケーションの意図を内包している、ということ。


Language is, by definition, a system of communication, and it requires an intention to communicate. 

定義に即して言えば、言語とはコミュニケーションのシステムであり、コミュニケートしようという意図/意思を持つことが条件となる。


ChatGPT feels nothing and desires nothing, and this lack of intention is why ChatGPT is not actually using language.

ChatGPTは何も感じず、何も欲しない。 この意図/意思の欠如が、ChatGPTが実際に言語を使っているわけではないという理由だ。


個人的には作品を享受するときに作者のことを第一には考えないほうですが、AIが「書いた」小説を読むと思うと屈辱的な感じがするのは、たしかにこの感覚——この陰に人間がいるかどうか——が根底にあるのかもしれません。それも、文章や絵のほうがその程度が強い。これがたとえば花瓶や食器だったら、自分の好みでさえあれば「生成AIによるデザイン・製造」か「手作り」かはあまり気にならない気がします。もちろん手作りと聞けばプレミア感はありますが……もしかしたら、文章や絵もそうなっていくんでしょうか。「人間が書いた・描いた」ということが、特別な「プレミア」扱いになることが。


 But is the world better off with more documents that have had minimal effort expended on them?

しかし、最小限の努力で作られたドキュメントが増えることで、より良い世界になるだろうか?


ここは一番心に響いたところでした。AIという道具を「どう使うか」は人間の選択ですから。世界を改善するために使う、というのは広義のSF好きにとっては懐かしいくらい当たり前の概念ですが、それが現実にはなぜかズレた方向に暴走している。それを現に目撃しているのに、この疎外感、無力感はなんだろう。私たち一般人にできることはあるのだろうか。「コレジャナイ」感を足がかりにしたとしても、消費者の立場でどう進めばいいのだろう。そのスモールステップはなんだろう。そんなことを思います。ラッダイト運動めいたことではなく、違うアプローチがある気がするのですが、それがわかりません。おそらくAIだけを取り出した問題ではなく、社会全体の在り方に影響するものであるはずです。


*     *     *


長い記事でしたが、自分の解釈では「生成AI用のプロンプトを書くこと」は「芸術作品(高尚なものからエンタメまで含めて)を作るという体験」にはなりえない、というお話でした。それでも「生成AIが吐き出したものは、"鑑賞者にとって"アートなのか?」というところには、まだまだ議論の余地がありそうだと思いました。象さんが鼻に持った筆で描いた絵でも、見る人が「面白い」「美しい」と思えばアートなのか。


…このへんにくると、やはりチャンさんもよく指摘する「資本主義」がふっと意識に上ります。今回チャン氏は具体的には言及していませんが、「生成AIが吐き出した絵・文章に値段がつけられるかどうか」がやはり気になるところ。もっとも、下記の部分が充分説明しているかもしれません。


Most of the choices in the resulting image have to be borrowed from similar paintings found online; the image might be exquisitely rendered, but the person entering the prompt can’t claim credit for that.

(AIが画像を生成するには)その過程のほとんどの選択を、ネット上にある似た画像から借りなくてはならない。結果としてできた画像は見事に描画されているかもしれないが、プロンプトを書いた人間が自分の功績だと主張することはできない。


The programmer Simon Willison has described the training for large language models as “money laundering for copyrighted data,” which I find a useful way to think about the appeal of generative-A.I. programs: they let you engage in something like plagiarism, but there’s no guilt associated with it because it’s not clear even to you that you’re copying.

プログラマーのサイモン・ウィリソンは、大規模言語モデルの訓練を「著作権のあるデータのマネーロンダリング」と表現した。この表現は、生成AIが人を惹きつける「魅力」を考えるうえで役に立つと思う。生成AIは、あなたに一種の盗作めいたことをさせているのだが、そこに罪悪感は生じない。なぜなら、あなたがコピーをしていることが、当のあなたにとってさえわからないからだ。


上記のウィリソンの発言ソースは見つけていませんが、ご本人についてWikiに説明がありました。
Simon Willison (wikipedia英語版)


ご本人のブログがこちら。ご興味のある方はどうぞ。(私にはとても読みこなせません!(^^;))
Simon Willison’s Weblog https://simonwillison.net/


著作権という概念は、ぶっちゃけ「お金に換算する」ところで発明されたものですよね。一番気になるのもそこです。つまりAIが、生身のアーティストや作家等の道具ではなく仕事を奪うライバルになり得るのかどうか。ちょっと前のハリウッドの騒動なんかはこの辺を問題視したわかりやすい例ですが、「生身の人間を使わずに同等のものが作れる」可能性を前提にしていました。

ここにはチャンさんが詳細に指摘した「作る側の体験」だけでなく、「受け手の体験」——私たちが無意識のうちにしている判断・反応の基盤にある価値観がかなり大きく影響するはずです。私が「AIが書いた小説を読むのは屈辱的な気がする」というのも、その反映の一つです。はっきりお粗末なものだとわかる場合は別としても、じゃあAI製だとバレなければいいんだろうか? そうして量産されたものを私たちは消費したいと思うだろうか? …なんかそれこそ『マトリックス』系の世界観で、どこかに眠ったまま夢を見せられるような不気味さを感じるのですが、私だけでしょうか。


そして「価格」「アートの価値」が結びつくのは、「物は売り買いするもの」という思考の枠内でのことかも? と思いつくと……なかなか見方が変わってくるのであります。「制作」のコストではなく、「鑑賞」のコストがいっさいかからないとしたら。子供の落書きも、現在億単位の値がついてる絵画も、同じように無料で見られるとしたら。そんな世界なら、アートだけでなく生活全般にそうしたコストゼロのシステムが反映しているでしょうから、意識の向く先が変わってくるはずですね。果たしてその時アートの価値の定義はどうなるのか? たとえば自然の風景を見たときの感動とどう区別するんだろう? そう考えると、自分の価値観や判断も「価格」や「パッケージ(上っ面のスタイル)」にかなり依拠しているのかわかります。その中で育ってきたんですもんね。それを客観的に見るのは難しいです。「価格」と「好き嫌い」と「押し出しの立派さ」(?)以外のアートの価値基準とはなんだろう? 



他にも、インスピレーションさえあれば芸術作品は作れるという主張は間違い(経験がないためにそう思うだけ)だとか、鋭い指摘がいくつも読めました。この問題ってアート方面に限らないことですね。「AIの使い方」自体が問われている時代に生きているのだと、つくづく思います。でも開発者でも販売者でもない身でどうかかわっていくのか、あるいは遠ざけるのか。「生成AI」は身近に触れられる「オモチャ」なので広く興味を引いていますが、AIの使い道の一つにすぎません。これに目をくらまされて、より重要な側面でのAIの使われ方から目をそらされることがないようにしなくては、とも思います。


生成AIが人間性を奪うという意味を、チャン氏はこう説明しています。 

The task that generative A.I. has been most successful at is lowering our expectations, both of the things we read and of ourselves when we write anything for others to read. It is a fundamentally dehumanizing technology because it treats us as less than what we are: creators and apprehenders of meaning. It reduces the amount of intention in the world.

生成AIが成した仕事のうちでもっとも成功したことは、私たちの期待値を下げることだ。自分が読むものに対する期待、そして他者に読んでもらうことを前提に何かを書く時の自分に対する期待、その両方を低下させる。これは根本的に人間性を奪い取るテクノロジーだ。なぜなら、それは私たち——クリエイターと、その意図や意味を理解する者——を、実際より価値の低いものとして軽く扱うからだ。こうした扱いをすることは、世界から意図/意志の総量を減少させる。


…いつも思うのですが、同時代にいてもその時のあらゆる情報を知っているわけではないんですよね。アクセスできたとしても一人の人間の頭脳で把握しきれるものではないでしょう。歴史を読んで「なんでこんなことをしていたんだ」と思うことが多々ありますが、自分も未来の人たちからそう見られるんだろうな、なんてことも思います。でもあきらめちゃいけないな。人類の細胞のひとつとしてどう生きるかは、自分の判断にかかっているわけですから。もしかしたら、こういうことを考える契機になっていることのほうが、未来から見たら「生成AI」の功績になるのかもしれませんね。


*     *     *


触発されて考えたことのメモなので、思考がぐるぐるして同じことを繰り返し書いちゃったかもしれません。読みにくかったらスミマセン。(そして拙訳部分もイマイチこなれてません。誤字脱字チェックも自信ないのでご容赦を☆(^^;))でもとりあえずアップします。推敲したり書き足したりしていると終わりがないので。凡人にまでこうさせてしまう、チャンさんの文章はほんとに触発力がすごいです。次の寄稿も期待しています。でも間はあけていいですよ(笑)……こうして解釈を書くだけでも格闘で、今の自分にはすごく時間がかかります。でもその時間こそが大事で、いろんなところに目を向ける機会をもらっています。(それこそAIで要約を作って記録したらそれは得られない体験だし、そんなことをしてもこのブログでは何の意味もないです)


2024/08/07

「ライティング」というテクノロジー:アリゾナ州立大学講演記録

私事に追われてだいぶ時間が経ってしまいましたが、今年の2/15-16にアリゾナ州立大学で行われたレクチャーその他の記録です。内容も充実してますが、公式ページで過去のインタビュー紹介をしていたり、別の意味でも充実しているので、ひととおりリンクしておきます。

開催後のまとめ記事


Leading science fiction writer Ted Chiang explores technology's impact on writing
https://news.asu.edu/20240216-arts-humanities-and-education-leading-science-fiction-writer-ted-chiang-explores
 

ライティングがいかに優れた「テクノロジー」であるかを指摘なさっています。(ブラウザの自動翻訳ではwritingが「書き言葉」となるのですが、「書くという行為」全体を指しているように見えるので「ライティング」としておきます)言われてみると確かに、ということばかり。

 

「ワープロソフトの代替品という意味ではありません。ライティングと同様に考えをまとめるのを助け、プレゼンテーションの言葉選びを助けるもののことです。この点でライティングよりも優れた、なんらかのコグニティブ・テクノロジーはあるでしょうか? ライティングにとって代わるものが、デジタルメディアの中にだけ存在し得るのでしょうか?」
“I don’t mean a replacement for word processing software. Is there some sort of cognitive technology similar to writing, but better than writing that will help you articulate your thoughts and choose the words you will actually say when you give your presentation? A successor to writing that can only exist in a digital medium?”

コグニティブ・テクノロジー”cognitive technology”…「認知的技術」とか直訳しても意味がなさそうなので、ちょっと調べてみました。一般的にはコンピューティングの用語らしく、人間の認知を模倣するシステムである点はAIと同じような……でも、AIのように勝手な最適解(お門違いなこともある!)をひねり出すのではなく、あくまで人間の意思決定を支援するもの——を指すようです。

 

あまりに身近すぎて、ライティングを代替可能な(?)技術として捉えるのは自分にとっては難しいです。それでも個人的な実感として、「書き出すことで思考が前進する」のは意識しています。頭の中だけだとぐるぐるしてしまうので、書き出したもの(一言でもいい)を自分で読んで、そこから刺激を受けて書き継ぐことを繰り返します。(さらにあとで編集します) たぶんこの「目と脳へのフィードバック」を含めた螺旋状のプロセス全体を「ライティング」とおっしゃっているんじゃないかな、と解釈しました。ただ、「口述筆記」ができる人は、自分とはまた感覚が違うかもしれないなー、とも思います。(自分には絶対無理。チャーチルはすごい!(笑)草稿からまとめた人が優れていたのかもしれませんが……)

 

他に印象的なところをメモします。(ほぼすべてで長くなるので拙訳のみで失礼)

 

(意識を持つマシンについて)
「自分たちが作った意識を持つマシンに対して、どんな種類の敬意を払うべきでしょうか?」

 

AIについて)
「現在のところ、私たちの目の前にあるものは、強化された自動補完(オートコンプリート)にすぎません」「テキストの統計的特性を明らかにするという面では、確かに興味深いものです。しかし敬意を払うほどの価値はありません。違うことを主張する者は、あなたに何かを売りつけようとしているのです」

「多くの人が、テクノロジーは人間性を奪い取るものだと感じています。裏付けとなる状況は充分にあり、確かにそうだと感じさせられます」

「しかし、もしも人間性を奪うのでなく、かえって人間性を与えてくれるテクノロジーがあるとしたらどうでしょう。それこそがライティングです。ライティングは、私たちが創造的になることを助け、理性的になることを助けます。これらは人の活動の中でもっとも人間らしいものです」

 

他にも、リズムや韻律が(大昔の口承文学の伝統がなくなり)ポップミュージックの専売特許になって、まじめな場面では使われなくなったことなど、興味深いご指摘でした。ときどきこの方の発信を読むのは脳トレになりますね。(^^)



 事前告知ページ


Exhalation and Other Worlds with Ted Chiang - Humanities Institute Distinguished Lecture 2024215日)

https://asuevents.asu.edu/event/exhalation-and-other-worlds-ted-chiang-humanities-institute-distinguished-lecture?id=0

参加無料でライブストリームもあったようです! ああ聞きたかった……(ヒアリング難民ですけど☆(^^;)

インタビューリンク


講演者の紹介として、過去のニューヨーク・タイムズのインタビューリンクまでありました。親切ですね。過去に記録していないと思うのでリンクしておきます。(音声ありなので美声も聞けます。でも聞き取り難民にはトランスクリプトなのがありがたい☆)

「スーパーヒーローは国家による不正には何もしてくれない」など、いつもながら鋭く、うなずけて、視野を広げてくれるお話が読めました。ざっと目を通しただけなので、じっくり読み直したいです。
個人的な偶然ですが、最近読んでる本に聞き手のエズラ・クラインさんの名前が出てきて「おや」と思いました。本ではワシントン・ポストの記者とありましたけど……専属ではないのか、あるいは移動したのかな?
 

『メッセージ』上映イベント


こちらは翌日の有料イベント。

ARRIVAL with author Ted Chiang2024216日金曜日)
https://asuevents.asu.edu/event/arrival-author-ted-chiang?eventDate=2024-02-16&id=0


『メッセージ』上映と、チャン氏による原作と映画についてのお話、質疑応答、サイン会という……なんて贅沢なんでしょう!参加できた方々が羨ましいです♡

*     *     *

以上でした。書きかけてからなかなかまとめられなくて、えらく時間がかかってしまいました。とりあえずアップ出来てほっとしています。じつは先月あたりから熱中症が抜けず、いくつか書いてるブログの中でもここは「脳みその負荷」が高めなので、ぼーっとゆだっている頭では書くのが難しくて。(^^;) 引用訳などまだまだ手をいれたいところですが、リンク先のチャン氏の発言は時期を問わず読む価値があると思います。ブラウザ翻訳でおおざっぱなところは読めるので、多くの方がご覧になれますように。(明らかにヘンな自動翻訳は読んでてわかりますもんね。チャンさんの名前がいちいち「蒋介石」になっちゃうとか……(笑))

2024/06/18

ヒューマン&デジタルフォーラム公式記録ページ+X落穂拾い+受賞ニュース

公式記録ページ

 先週開催されたハンギョレ・ヒューマン&デジタルフォーラムの記録ページができていました。チャンさんを含め、当日の講演概要記事が読めます。というか毎年開催されているイベントのようで、遡ると過去の回の記事も読めるようです。

ハングルのページですが、ブラウザの自動翻訳でおおざっぱに拝読できたので記録しておきます。(chromeを使っているのでGoogle翻訳なんですが、チャンさんの名前をハングルから日本語変換すると「テッド・ウィンドウ」になります。原語の「窓」と同じ文字なのかな?)


【シリーズ】ヒューマン&デジタルフォーラム
https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/2855


チャンさんの記事のひとつにリンクしておきます。

テッド・チャン
「AIは短期間に大量の練習をしただけ
(…)むしろ応用統計学に近い
https://www.hani.co.kr/arti/economy/economy_general/1144548.html


「応用統計学」は、たしか以前ご紹介なさっていたツイートにあった例えですね。「人工知能」ではなくこう呼ばれていたら、今の混乱はなかったのに…という。でもまあ、開発者側のマーケティングが成功したということでしょうね。

「実際に感情を感じることと、感情を感じているように表わすことは違う」は、有名な「チューリング・テスト」(→wikipedia)の投げかける問題ともつながってきますね。

…私見ですが、ChatGPTを使ってみた印象は……それこそチューリング・テストにパスしそうな「もっともらしさ」に特化していて、一方で自分が一番「機械」に期待する「正確さ」が犠牲になっていたので、あまり価値を感じませんでした。
(少し前に「資料探しをやってくれるのかな?」と思って使ってみたんです。なんと架空の書名をいくつも捏造してくれただけでした……で、「ISBNをつけて!」と条件を加えたら……それも捏造!(涙) 実在の本が「ひとつもない」っていったい……「わかりません」とは意地でも答えず捏造するって、まあ人間臭いと言えないこともないけど(笑)、そんなこと求めてないから。あたかも実用に役立つかのような報道のされかたって絶対問題あると思う! まあこのへんは大人の事情でしょうね☆)


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X落穂拾い

今回情報を下さったキム・サンフンさんに教えていただいた、ハングルの「テッド・チャン」=「테드 창」でXを検索したところ、ブックトーク参加者さんのポストも見ることができました。(英語ではほとんど見つけられなかったので大感謝です☆)

こちらは印象的だった質疑応答を返信でつなげてポストなさっているので、最初のポストを埋め込ませていただきます。(枠内をクリックするとX内のポスト掲載ページに飛び、青文字の「ポストを翻訳」が表示されると思います。それをクリックすると自動翻訳されます)



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受賞ニュース

ついでに、同時期に流れてきた受賞のニュース。「2024年PEN/マラマッド賞短編部門優秀賞を受賞」だそうです。


公式サイトの記事はこちら。

Ted Chiang Wins the 2024 PEN/Malamud Award for Excellence in the Short Story


賞レースはあまり興味がなくて、この賞の名前も初めて聞いたので、賞の名前になっている作家さんをググってみました。(→Wikipedia「バーナード・マラマッド」)『ナチュラル』の原作者なんですね。書く速度が遅く、慎重であり、多作ではなかった」というところはチャンさんとも似ているような。SFに特化した賞ではなく「短編小説として」評価されているのが素晴らしい(垣根はいらないと思っている方なので)。チャンさんご本人のコメントにはこうあります。
「サイエンス・フィクションが
より広大な文学の世界に受け入れられていくなかで、その一翼を担えることを光栄に思います。」
おめでとうございます!

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自分がネットを覗ける時期に波があるのも原因ですが、更新するネタがない時は半年も一年もまったくないので、一つの記事で三つも小見出しをつけるなんてちょっともったいない気がします……記事を分ければよかったかなー。でもすべて同じタイミングなのです。今のペースはむしろ自分の時間が足りなくて追いつけないくらい。喜ばしいことですね。たまたま今、自分がこれを読める状況であることも嬉しいです。(^^)

2024/06/08

「AI(人工知能)に本当の《知能》はない」:インタビューと基調講演の予定

このインタビュー、短いですがめちゃくちゃ濃いです! AI周辺の問題にご興味のある方(そして創作やメタファーというものにご興味のある方)なら「どなたにでも」ご一読をおすすめします!(本質的なレベルのお話で、この方の小説の予備知識は不要。話題は作品ではなく現実のAIです

先週Twitter(…じゃなかったX💦)で拾ったインタビューなんですが、これが6/12にソウルで開催されるハンギョレ・ヒューマン&デジタル・フォーラムの基調講演を控えた事前インタビューなのでした。私事が立て込んでアップが遅れるうちに、なんとなんと、通りすがりの韓国の方からこちらを含めた関連情報リンク集をいただきました!ありがとうございます!合わせて記録させていただきます♪
【2024/6/15追記:「通りすがりの謎の人」扱いをしてしまいましたが、韓国でチャンさんの作品を翻訳しておられるキム・サンフンさん[金相勳/김상훈/ Kim Sang-hoon]だとわかりました!(大恐縮です☆)お名前を併記することをご快諾いただけたので、この場を借りて改めて御礼申し上げます】

インタビュー

さて、まずはインタビューから。(最初に拾ったページは英語版でしたが、元サイトに日本語版があり遡ったら邦訳があったので、そちらにリンクします)

ハンギョレ・ヒューマン&デジタル・フォーラム基調講演事前インタビュー
「SF小説家テッド・チャン「AIに本当に知能がある?…そうは思わない」」
(文中に「ハンギョレ人」とあるのは、たぶん「ヒューマン」が自動翻訳か何かで誤変換されたのでは、と思います。同様に少しだけ不自然なところもあるので、引用は英語版からの拙訳を交えた解釈で書きます)

インタビュアーは、フォーラムでチャンさんとディスカッションをする物理学者のキム・ボムジュンさん。中で、The New Yorkerへの寄稿でのAIのたとえ(「ぼやけたJpeg」や「マッキンゼー」)が印象的だったことから、「メタファーの持つ力」について尋ねています。チャンさんはマッキンゼー」について、「マッキンゼーというコンサルティング会社なんて聞いたこともない人がたくさんいるので」良い例えだったとは思っていない、とおっしゃっています。いつもながら「伝える」ということに対して誠実な態度で清々しい。でも、「ええっ、逆にこれをきっかけに調べられて勉強になったわぁ♪とか喜んでるのもここにおりますですよ♡」とか思った次第です。(笑)

「メタファーは馴染みのない概念を理解しようとするときに役立つけれど、そのまま当てはまるわけではない。理解するための手始めの手段に過ぎないことを、常に覚えておく必要がある

フィクションの果たす役割の一部も、重なってくるように思えますね。

(上記で触れているThe New Yorkerへの寄稿は、こちらの記事でご紹介しています)
「ChatGPTはWebのぼやけたJPEG」を読んで」
「『AIは新たなマッキンゼーになるのか?』を読んで」

基調講演では、AIに本当の意味での知能はないこと、大規模言語モデルが実際に扱っているのは言語ではないこと、生成AIはアートを作る道具ではないこと……について話す予定だそうです。感情として大共感なのですが、自分は説得力のある「根拠」を示せないので、いつも手堅いチャンさんの説明を聞いてみたい。事後に要約でもいいからテキストで公開してくれるといいですね。

インタビューには、他にも「良いストーリーを作るシナリオと、現実に起こるかもしれないシナリオは明確に区別するべき」(AI業界の人がSFの「シンギュラリティ」を現実のものとして語りたがることへの指摘)などなど、すっごく大切な視点ばかりなので、ぜひ元ページをご覧ください。(いやもう、このインタビューをネタにしてたら3本も4本も記事ができてしまいそうです!)

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関連リンク

…で、これをアップしようとしていたところにいただいたのが、前述の韓国の方からのメールでした。何年か前にも、通りすがりの韓国の方から情報をいただいたことがあるのですが……お名前やアドレスが違うので別の方なのかも。【2024/6/15追記:前述の通り、翻訳家のキム・サンフンさんです☆】とにかく嬉しいことです。この場を借りて厚く御礼申し上げます!

では、以下はいただいたリンクです。


チャン氏を含む4名の講演者さんの紹介ページ

https://english.hani.co.kr/arti/english_edition/e_national/1141477

フォーラムでは講演者全員が参加するディスカッションもあるそうです。説明を読むと興味深い方々ばかりなので、聞き取りの壁がなければ拝聴したいなぁ……。


基調講演事前インタビュー英語版

[Interview] ‘AI is not really intelligent’: Ted Chiang on science and fiction in the LLM boom

自分が最初に見つけたのもここでした。日本語版でわかりにくいところがあれば、こちらをブラウザ翻訳などで読むと具体的にイメージしやすいかもしれません。(この手のサービス、まだ英語がらみの翻訳のほうが圧倒的に精度高いですもんね☆)


物理学者キム・ボムジュンさんのYouTube動画

https://www.youtube.com/watch?v=CS9EdqAJvBQ 

今回ご紹介した事前インタビューと、当日のディカッションをご担当なさるボムジュン教授が『バビロンの塔』をご紹介なさっている動画です。チャンさんのファンなんだそうです。ディスカッションも深いものになりそうですね。


来韓記念ブックトークの参加申し込みページ

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf1ZPj_xTYzJdEhjnQO08GIzsOSs-iyRlF3dMEC7BRvzmFfbw/viewform?vc=0&c=0&w=1&flr=0

こちらはもう締め切られていますが、こういう催しもあるんですね。参加できる方がうらやましい……♡


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読み終えての雑感

ちょっと前までリモート参加のイベントが多かったですが、直参が増えてきましたね。特にフィクションがらみでなくAIがらみの催しへのご登壇が増えた印象。この話題の周辺はものすごい速さで状況が進行していますが、資本主義への問題意識を基盤に据えたチャンさんの視点は、共感できますし、上滑りしない認識の仕方で実感として理解しやすいです。これは現実に起こっていて、私たちはリアルタイムに立ち会っていて、ほかのいろんな問題とも絡み合っている——。個人的にはまだ半分SFを見ているみたいな感覚もあるんですが、これ他人事ではないですよね。

自分が一番恐れているのは、AIの反乱とかハリウッドチックなことじゃなくて、じつは環境問題の方です。(そして経済の不均衡、それに連なった軍事紛争……あれもこれも資本主義とがっつり絡み合った問題に見えます

偶然ですがつい先日、国連のグテーレス事務総長が化石燃料企業の広告禁止を訴えた(BBC日本版の記事)際に、「このままでは2030年(聞き間違いでなければ)までに気温が大幅に上昇する」と話していたのを、病院の待合室のテレビで見かけてすごくショックでした。すぐじゃないですか! なんで広告の禁止なんてレベルで騒いでいるの? いやそれどころじゃないでしょ、という感じで。

そしてそれ以上に、待合室の人々がその映像に特に目を向けることもなく、前を通り過ぎていく光景がシュールで。え、私の感覚がおかしいんだろうか。これすごいこと言ってない? …と思いつつ、だからどうするというのか、というと何もしていない。……そこまで資本主義が私たちののーみそに浸透していて、「病状」は深刻なのでしょうか。このまま崖から落ちるレミングの一匹になるしかないのでしょうか。

もしAIが役に立つものなら、こういう問題の解決にこそ貢献する使い方を、人間が考え出さなきゃいけないんですよね。よく似た偽物を作るためなんかじゃなくて。

「人工知能」なんてドラマチックな命名に惑わされてしまいますが、AIはプログラム。どんなに複雑だろうと、一人歩きする別種の生命体ではなく、人間が使う「道具」なんですから——人間しだいです。本当に。

でもその当事者になり得る層の人々と自分たちの間に、どうしようもない乖離を感じるのです。物理的にも、精神的にも。どうしたらいいんだろう。どうなるんだろう。少しでも望ましい方向に進むために、一般の個人ができることはないんだろうか。

…自分一人なら、たぶんこんなところまで考えることさえできません。知識人・文化人さんの役割の一つは、私のようなボンヤリなパンピーにまでこういう視点を持たせてくれることでしょう。その意味でチャン氏の発言は信頼しているし、今後の発言も追っていきたいです。もう小説家さんとしてではなく。小説じゃなくていいです。でもこういう言説を追って満足するのではなにか違うとも感じています。これは個人の課題です。

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取り急ぎ、開催が迫っているイベント関連のお話でした。これの前に見つけた講演記録があるのですが、私事でアップが遅れまくっています。まあ事後なので慌てずに……改めて記録します。